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【海外研修】ドイツ研修7日目(1/12)

ホームステイ2日目、この日は朝からバスと電車で90分ほどかけてダッハウ強制収容所へ行きました。相変わらず、1/11から続く地域農民組合連合によるデモ等の影響で、地下鉄も本数が少なく、いつもより時間がかかったそうです。このデモは翌日にはおさまりました。

 


EMGでは、授業で必ずダッハウ強制収容所へ行くそうで、この日はその時に参加できなかったEMGの生徒も一緒に参加しました。

 

ドイツのミュンヘン北西部にあるダッハウ強制収容所は、ナチスが1933年に設立した最初の常設強制収容所でした。ダッハウ収容所は親衛隊の収容所護衛兵のトレーニングセンターであり、この収容所の組織と慣例がすべてのナチス強制収容所のモデルとなったそうです。

 
この日はマイナスの気温で、防寒着を着ていてもとても寒く、当時の人たちがこの寒さの中でも薄着で労働させられていたと思うと、その辛さは想像を絶するものだったはずです。実際に、疫病が流行ったり、体力が低下して亡くなった人もたくさんいたと聞きました。

「働けば自由になれる」と書かれた当時の門。実際はどれだけ働いても自由にはなれず、その先に待っているのは「死」でした。

 
この収容所の初期の囚人は、ナチスの政治に反対する活動家や、ドイツ共産党員、社会民主党員、労働組合員、エホバの証人、ロマ族(ジプシー)、同性愛者、常習犯で占められていました。一万人以上のユダヤ人男性が収容された(水晶の夜)と呼ばれる暴力の結果、ダッハウ収容所のユダヤ人の囚人数は、増加しました。そして、ドイツを発展させるために収容所の人たちは軍事工場や自動車製造、鉄道、また、新しい強制収容所を作るためなどの理由で強制的に労働を強いられていました。ドイツにとって強制収容所は大事な「産業」だったという事実を知り、私たちは言葉を失いました。

 
さらに、医師による様々な人体実験も行われていました。これらの実験の結果、数百人の囚人が死亡したか、回復不能な障害を負いました。そして、その障害を負った人や精神疾患を抱えた人を送り込む病院が、EMGがあるHaarにあります。EMGの生徒たちも、この記憶を忘れないために、当時の話を演劇にして発表するそうです。これが、EMGとふたば未来の共通点であり、そのこともあって、ずっと交流が続いているのです。

 


1939年に第二次世界大戦が始まり、囚人の数が増え、どんどん収容所が人であふれるようになりました。一人あたりの食料は減り、環境もどんどん劣悪なものになったそうです。そのことが良くわかる展示でした。

 

 

 

そして、重い気持ちのままマリエン広場へ移動し、授業を終えた他の生徒たちと合流。そこからはEMGの生徒のみなさんによる市街地ツアーでした。まずは聖ペーター教会の時計台に登りました。299段の階段を登って見えた景色は素晴らしいものでした。

 
その後は3グループに分かれて、様々な名所に案内してもらいました。EMGの生徒もその建物の歴史などを一生懸命説明してくれて、この日のために準備をしてくれたのだと思うととても感動しました。

生徒のコメント(S.Rさん)

手がかじかむとても寒い日でした。しかし強制収容所に入れられた彼らは私たち以上に苦しい寒さを経験していたのだと思います。身体的にも精神的にも私たちには想像できないほどに。ダッハウ強制収容所にはガス室がありましたが、使われることはなかったそうです。なぜならば使用する前に戦争が終わったからです。ゾッとしました。そして制服には収容された理由を示すバッチと番号が貼りつけられていて、腕にも番号が入っていたそうです。SSが彼らを1人の「人間」としてではなく数ある中の1つの「番号」としか扱ってなかったことを知り、胸が痛みました。ダッハウ強制収容所を見て、ドイツの黒い歴史を目の当たりにしました。とても悲惨な出来事に目を向けることは辛く、苦しいことでした。しかし私たちはその感情で止まってはいけないと思います。あの出来事から私たちは何ができるのか、何をしていかなければいかないのか考え、行動しなければいけないと感じました。